羽毛の歴史

海外における歴史

ガチョウやアヒルと人類との関わり合いの歴史は中国4千年の歴史にも見られるように非常に長いものである。

こうした水鳥類の羽毛が衣料や寝具などの充てん物としてヨーロッパ、とくにドイツ、北欧米国では古くから使われてきた。普及の歴史をたどってみるとノルウェーの王候、貴族達の墓をはじめ、かの有名な海賊・ヴァイキングの墓から羽毛布団が発掘されたと伝えられている。これらは、当時すでに北欧を中心に広く羽毛布団が使われていたことを物語っている。

そして中世に入ると、ますますその普及は広範囲におよんでいったが、普及の段階はまだ一部の裕福な人たちに限られ、ある意味ではあこがれのものであった。たとえばフランスには「羽毛ふとんに寝る」”Coucher sur le duvet”と書いて「ぜいたくをする」という意味の俗語があったという。しかし、そんな当時の状況も、18世紀末に起こった産業革命によって、大きく変化し従来は手作業によって作られていた羽毛ふとんも機械による生産に順次移行し、大量生産の新しい時代に入っていった。

それに伴って羽毛ふとんは急速に庶民の生活の中に浸透していったのである。 日本でも良く知られている世界最大で最古の羽毛関連機器メーカーといわれるドイツのロルヒ(L.H.LORCH)社はすでに1877年に創業を開始し、各種の羽毛加工機械を製作、産業製品としての羽毛ふとんの普及に大きな役割を果たしてきた。

工場で生産され産業製品として登場した羽毛ふとんは、ドイツをはじめとしたヨーロッパ諸国に広がっていった。そして、現在羽毛ふとんの先進国である北欧のノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランドなどの諸国では羽毛ふとんの普及率は80%以上ともいわれるように極めて高い。またドイツでも80%前後の普及率となっている。

日本における普及の歴史

日本における羽毛ふとんの普及の歴史は浅い。明治、大正に上流階級とか、いわゆる洋行帰りといった極く限られた人たちに使用されるにすぎなかった。

当時の羽毛ふとんは、とびきり高級かつ高価な舶来品で庶民にとっては高嶺の花といった存在であった。

我が国で羽毛ふとんが作られるようになったのは昭和の初め頃よりであり、ようやく一般家庭にその普及が始まったのは昭和40年代の前半期であった。その後、国家経済の高度成長を背景に庶民の生活も豊かになり、従来から高級商品的な見方をされてきた羽毛ふとんも一般家庭で購入され、使われるようになった。しかし、当時はまだまだ贅沢品としてみなされ、40%もの高い物品税が課せられていた。当時の羽毛ふとんはドイツをはじめとしたヨーロッパ諸国から製品を輸入して国内で販売するといった方法が大半であった。

昭和44年に物品税が廃止となったが、その理由は消費生活の向上、所得向上などと照らし合わせて、羽毛ふとんは贅沢品ではなく、実用品であるとの認知を得ることであった。

羽毛ふとんの消費を加速させた要因の一つとして、羽毛ふとんの生産国である中国との国交回復で羽毛貿易にも好影響を及ぼし、加えて為替の急速な円高進行などに後押しされて、羽毛ふとんの普及は本格化へと進みだした。こうした普及の拡大に合わせて、昭和410年代後半から国内での生産も本格化へと向かった。

生産本格化の主軸は生産の機械化であった。すなわち羽毛の精製・充填・縫製など一連の機械設備を導入した羽毛ふとんメーカーが相次いで誕生した。生産に関連する羽毛洗浄機、ソーティングマシン、ミキシングマシン、充填機、縫製機器などの開発が急ピッチで行われた。

また、原羽毛洗浄の為の洗剤や薬剤、さらには羽毛ふとん専用の生地の開発も進み、国内生産の羽毛ふとんが市場をリードするようになった。

急速な普及拡大は品質面、価格面に適正さを欠いたことも否定できない。当時、品質表示の法律も整備されず、品質についての基準も統一されておらず、品質の悪い粗悪品が適正でない価格で市場に出回るなど消費者に戸惑いを与えるようなところもあった。

平成元年日羽協を中心として通産省、学識経験者、消費者代表による原案作成委員会によって、JIS規格(日本工業規格)が制定され、「羽毛用語」「羽毛の試験方法」が国内で統一された国の基準として決定をみた。

わが国における羽毛ふとんの普及は、その気候風土にあった高機能寝具として、高級感をもつ感性、本物志向、そして主軸となっている健康機能ともあいまって、わずか20数年の間に驚異的ともいえる急成長をなしとげ、この間の幾多の試練をも乗り越えて安定成長を続けているが、不況の影響などもあり、昭和62年~平成3年頃をピークに国内製品の販売はその後年々5%前後の減少を続けている。

品質破壊、価格破壊の元凶であった一部の輸入品もここ2~3年は急激に減少し総体的な消費量の減少につながっていることは事実だが単価アップが進んでいることは将来に向けて明るい材料だ。

羽毛余話(アホウドリの話)

明治時代における日本からの羽毛輸出の例として、語り継がれているものに、現在は国際保護鳥となっているアホウドリがある。

アホウドリの棲息地は、東京から南へ約580kmにある鳥島であり、10~4月頃までは島全体がアホウドリで埋まり、足の踏み場もないほどの数であったといわれる。このアホウドリに目を付けたのが、八丈島で生まれ、東京で回漕業を営んでいた玉置半右衛門であった。当時の鳥島は定住者のいない無人島であったので、鳥たちの棲む環境としては絶好であった。

アホウドリは、翼を広げると2.5mにも達する大型の北半球に棲息する海鳥であった。海鳥であるから羽毛ふとんの詰め物として使われるのに適していた。しかも一羽から大量の羽毛が摂取できるという大きな特色があった。

羽毛輸出事業に魅力を感じた玉置は、1888年(明治21年)3月に東京府から鳥島の10年間の借用許可を得て、早速、アホウドリの捕獲にとりかかった。同年中に50人を越える人を雇い、鳥島に移住してアホウドリの捕獲と羽毛の採取にとりかかった。人間を恐れることを知らなかったアホウドリは、群をなして、その長い首を伸ばして、無警戒に人間たちによってきた。

人間達は次々にこん棒で打ちのめし殺していった。

捕獲したアホウドリ一羽から約100刃(375グラム)の羽毛が採れたと言われている。アホウドリは渡り鳥であったので、島に渡来する季節は、10月から4月頃まであったが最初の半年間で少なくとも10万羽以上のアホウドリの羽毛がむしり取られたと言う。

むしりとった羽毛はしばらく乾燥させてカマスに詰めて、積み出していた。量に換算して、10万羽の羽毛は400トン近くあったと言われるから、当時としては、かなりの量であった。

玉置は、この羽毛の見本を持って、横浜の外国商館への売り込みに日々奔走した。初めて商談が成立したのは、1889年5月、ドイツ系アメリカ人が経営するウィンケル商会だったと言われている。価格は当初100斤12円であったが、その後100斤17円として、30年間の特別契約を結ぶことに成功していったのである。当時としては、破格の契約であり、また金額でもあった。その後、横浜における代表的商社数社とも取引もでき、3年後の1891年の特約以外のアホウドリの売却価格は、100斤について上物で80円、並物で45円という値がついたと言う。

玉置の1891年の売上額は、8,200円にも上がり、当時の貨幣価値に比べると膨大な額であった。因みに米一升が4銭であったから、玉置が如何に巨額の富を手に入れたかを窺い知ることができる。島には200人もの雇人を送り込み、「自ら島主の観を呈する」に至ったと伝えられている。玉置は1896年の全国長者番付にも名を連ねたことからも、その富豪ぶり知ることができる。

しかし、それまでの乱捕が影響して、同島のアホウドリの数は減少し始めていった。このため1898年3月の鳥島借用許可の更新の際、東京府からアホウドリの捕獲に制限を付けられることになった。さらに追い打ちをかけるように、1902年8月同島で火山の大噴火が起こり、当時、島にいた125人全員が死亡するという事件があった。

それでも玉置はあきらめることなく、翌年、再び29人を引き連れ再起を図ったが、1906年、狩猟法でアホウドリが保護鳥に指定されたことから、鳥島での玉置の事業は終わりを告げることとなった。鳥島大噴火までの15年間で約500万羽のアホウドリが捕獲されたのであった。

後に八丈島の人達の間では、「鳥を殺すと島が火を噴く」と言い伝えられているが、アホウドリで巨額の富を築いた玉置は、日本における羽毛の歴史に新たな1頁を記し、羽毛への関心を高めたことは事実であろう。

{羽毛と寝具のはなしから}