社長日誌

感染?
私は復調したのですが、昨夜くらいから家内の体調が悪くなってきたようです。
医者に行くよう言っておいたのですが、帰宅して確認すると行ってないようです。
「インフルエンザじゃないの?」と聞くと、「熱が37度代なのでインフルエンザではない。私はインフルエンザだと必ず39度まで熱があがる」というのですが、23時頃には熱が39度を超えたようです。
果たして食中毒がうつったのか?それともインフルエンザなのか?
明日は是非、医者に行って欲しいものです。
復調
昨日、雑炊を食べてしまいましたが、その後、問題もなく順調に回復しました。
今回は嘔吐下痢に加えて熱により体の節々が痛み辛かったのですが、これも体内の免疫機能が活躍してくれているのだと感じました。
知っていることと分かることは違うと言いますが、温かくして寝るということは、バイ菌と戦っている免疫機能が頑張れる環境を作っているんだなあということが分かった気がします。
社員にうつしてはいけませんので、本日はお休みしましたが、明日からは仕事に戻れますね。(^^)
絶食
昨日、病院に行って二日間の絶食を勧められました。
最初は体調悪くて熱も出ており、寝ている時間も多かったので、実行できるかなと思っておりましたが、やはり24時間くらいたつと、お腹が減ってきて、ポカリスエットだけでは我慢できなくなって雑炊を食べてしまいました。
先生の予想よりも復調が早いのか、それともこの後、様態が悪くなるかドキドキしますが、食いしん坊には困ったもんですね。(^^;)
食中毒
昨日から体調が悪く、インフルエンザだったら病原菌をまき散らしてしまうので、病院へ検査に行ったのですが、東京では関西と別のインフルエンザが流行っているということで、インフルエンザ2種類と食あたりの検査をすることになりました。
結果は食中毒ということですが、思い当たるものがなければ、握手などの接触が原因で感染したのではないかということです。
まあ、インフルエンザでなかったのは良かったのですが、おそらく大腸菌性の食中毒だということで感染のおそれもあり、4日くらいは休んだ方が良いということです。
いつも思うことですが、どうせお休みをいただくなら健康な状態で休みたいものですね。(^^;)
会議
本日の朝、神戸から帰社し、そのまま仕事を始めました。
西川産業の佐藤さんに確認しなければいけないことがあったのですが、4時まで会議で電話に出られないとのことです。
なぜか今日は体調が悪いので、早めに帰ろうと思っていたのですが、仕方なく他の仕事をしながら待つことにしました。
しかし、4時を過ぎても電話がないので、再度、電話すると会議が長引いているとのこと。
結局、4時半頃に電話がかかってきたのですが、その後またすぐに別の会議に出なければいけないとのことです。
体調が悪かったので、嫌みを言ってしまいましたが、会議で連絡がつかないというのは、急ぎの場合、どうにかならないのかと思いますね。(^^;)
姉妹支部
赤富士
本日は、早朝に東京から大阪へ移動しました。
今回も富士山が見える側の席に乗ったのですが、朝焼けで富士山が赤く見えたのです。
朝焼けで赤く染まった富士山を見たのは初めてで非常に感動しました。
しかし、よく考えてみると東から西に走っているはずなのに、なんで朝焼けで赤く見えるんだろうという疑問が頭をもたげてきます。
不思議に思ったので、スマホで地図を見てみると、東海道新幹線は真西に走っているわけでなく、特に小田原から熱海の間は南に走行しているので、このとき東からの朝日が照らす富士山を見ると朝焼けで赤く染まって見えることが分かりました。
富岳三十六景でも赤富士は出てきますが、また新しい富士山の一面が見えて、朝から嬉しかったですね。(^^)
金茶寮
ウミネコ
本日は淡路島の福良港で観潮船「咸臨丸」に乗船しました。
これまで、地元にいながら鳴門の渦潮を見たのは渦の道からのみで、観潮船に乗ったのは初めてのことです。
ここでは、ウミネコの餌付けがされており、乗船すると1袋100円で餌が販売されております。
ウミネコも慣れたもので投げると上手くキャッチしたり、手に乗せて差し出せば飛びながらかっさらっていったりして、船が寄港している間だけではなく、動き出してもずっとついてくるのです。
私は元々、動物に餌をやるのが趣味なので、500円以上餌代に使用してしまいました。
私同様、動物に餌をやるのが趣味の方(そんな方が多いかどうか知りませんが・・・)には、お勧めだと思いますね。(^^)
あれから20年
今日は震災から20年ですね。
20年前の今日は大阪への出張でした。
当時は明石大橋が開通しておりませんでしたので、高速船に乗るためマリンピアへむかう途中、橋の上で突風にハンドルをとられたかと感じたのが地震でした。
港に着くと、テレビで地震速報が流れていたのですが、その時はたいしたことがないということで、予定通り船は出発したのです。
しかし、途中で連絡橋が不通になり関空が孤立していることや神戸港の岸壁が落ちているとの情報が入ってきました。
天保山埠頭に着くと、普段と変わらない様子でしたが、コンクリの地面にできた水たまりの写真をカメラマンが撮っていました。
今考えると液状化現象を撮影していたのでしょう。
地下鉄がとまっていて、いつ復旧するかわからない中、たまたまつかまったタクシーで取引先へとむかいました。
商談をすませ、船は普段通り動いていたので帰宅しましたが、帰宅してから初めて、この地震による被害が大きかったことを知りました。
あれから20年
考えてみれば日本も私自身も大きく変わりましたが、震災の記憶を風化させることなく思い返すことの重要性を感じながら黙祷いたしました。
